インテルジャパン元社長が明かす「インテル入ってる?」はこうしてできた

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シャープの事業部長、インテルジャパンの社長を経験し、現在は西岡塾などで後進の育成に力を注ぐ西岡郁夫氏に、一流の仕事の哲学についてお伺いした。

専用ワープロがパソコンよりも人気がある、特殊な日本市場をパソコン市場に変える!

薮崎 「元々シャープにいらっしゃいましたが、どのようなことをされていたのでしょうか。」

西岡 「1969年にシャープに入り、23年在籍しました。シャープでは技術本部に新設したコンピュータ研究所長などを経て、コンピュータ事業の事業部長として様々なことにチャレンジしていました。

   インテルとつながりを持つきっかけにもなったのですが、“世界最小、最軽量、最薄”という画期的なノートパソコンの開発に取り組んだのは、非常に記憶に残っています。“世界最小、最軽量、最薄”を実現できたのは、容量が1.44MBと小さいのに図体はでかいフロッピーディスク(以下、FD)の代わりに、アメリカのベンチャーが開発した2.5インチで20MBのハードディスクを搭載したからです。当時のパソコンは、一太郎や花子などのソフトウエアがすべてFDに入っており、ソフトのインストールのためには必ずFDドライブが必要でした。このFDドライブが大きくて重くて分厚く、ノートパソコンのサイズを決めていたのです。

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西岡 郁夫(にしおか いくお)
1943年大阪市生。69年大阪大学修士課程修了しシャープ(株)入社。コンピュータ事業部長を経て92年インテル(株)入社、93年社長、US副社長、97年会長。
99年NTTドコモ等とモバイル・インターネットキャピタル(株)設立、社長。ベンチャーの経営指導に注力。07年(株)イノベーション研究所を設立し代表取締役社長、西岡塾塾長。現在16期。

   若手メンバー達との熱い議論の末、ソフトウエアをインストールする際にはFDドライブをノートパソコンに付けられるようにし、持ち運びする時にはパソコンから取り外せるようにしました。FDが消えた今となっては当たり前のように思うかもしれませんが、当時は非常にユニークでチャレンジングな取り組みでした。」

薮崎 「インテルと出会うきっかけは何だったのでしょうか。」

西岡 「インテルとの共同開発がきっかけです。ノートパソコン用にマイクロプロセッサの省電力化を目指していたインテルが、開発を一緒に行うパートナーを探していて、シャープに白羽の矢が立ったのです。それは、前述したシャープのノートパソコンのヒットという功績を高く評価してくれたからでした。

   それで共同開発契約というのを結んだのですが、最初に契約書原案を見たときはびっくりしました。あまりにも一方的にインテルに有利な契約書だったのです。インテルからは、法務と技術、マーケティングの担当者が5人も契約交渉のため日本に押しかけてきました。シャープ側は私1人で徹底抗戦して、平等で対等な契約に持ち込んだのです。インテルがアンフェアだったのではありません。原案とは提案側に有利に作られているので、提案を受ける方はしっかりと筋を通して頑張り抜かないといけないことを学びました。

薮崎 「インテルとはパートナーという関係だったのですね。どのような経緯でインテルに移られたのですか。」

西岡 「その時のインテル側のリーダーの方が、CEOアンディ・グローブに日本の社長として私を推薦してくれたらしいのです。ただし、当初はアンディから当時のシャープの社長だった辻晴雄さんに『西岡さんをインテルに下さい』と申し出がありましたが、辻さんは断られたそうです。社長同士の水面下の話し合いが京都で開かれたと、後で聞きました。断られた辻さんでしたが、後日、『君の一生のことを勝手に決められないから言っておくが、アンディから西岡をインテルジャパンの社長に欲しいと申し出があったが、断っておいたよ』と報告していただきました。

   当時、新製品の商品発表で忙殺されていたので、『結構です』と一旦はお答えしたのですが、後で『やっぱりインテルに一度行ってみたいな』と思って、辻さんに『インテルに行かせて下さい』と相談を持ちかけました。休みの日に2回、社長室で長いこと話を聞いていただきました。最終的には『行ってよろしい』となり、行くことに最終決定するためにインテル本社にアンディに会いに行きました。なぜ僕を欲しいかを確認するためです。アンディは『専用ワープロがパソコンよりも人気がある特殊な日本市場をパソコン市場に変えて欲しい』と明確に説明しました。それは面白いなと考えてインテル行きを決めました。

   辻さんに決心を伝えたところ、次の幹部会でみんなに『西岡はインテルに行くことになった。西岡、頑張れよ!』と両の掌を握って激励していただきました。感謝とともに、上司とはこうあらねばならないということを学びました。本当に辻さんにはお世話になったのですよ。いまも『別に用事はないけど、会おうか?』とご連絡をいただいたり親しくしていただいています。」

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※インタビュアー:薮崎 敬祐(やぶさきたかひろ)株式会社エスキュービズム代表取締役社長 2006年にエスキュービズムを創業し、IT、家電、自動車販売など様々な事業を展開。「あったらいいな」ではなく「なければならない」領域に、新しい仕組みを提案している。

「インテル入ってる」には最初は反対!

薮崎 「インテルではどのようなことをされていたのでしょうか。」

西岡 「1992年にインテルの副社長に就任したのですが、まだまだ日本の中ではインテルは有名じゃなかった。『インテルジャパンの西岡ですが』と電話口で言ったら、『インテリアジャパンの西岡さんですか?』なんてこともありました。インテル本社もブランディングに注力をしていたときでもあり、ドンドン外に出てパソコン市場の拡大に向けてのマーケティングに力を入れました。インテルという名前が有名になったでしょう。

   私のインテルへの移籍は『インテル入ってる』プロジェクトが始まった直後です。実は私は最初、このプロジェクトには反対だったのです。かつてシャープの事業部長として、ノートパソコンのデザインにはすごくこだわり、手触りや色合いなどデザインを一生懸命検討して、製品を世に送り出していました。その手塩にかけて開発したノートパソコンの、しかも一番目立つところに、目立つ青色の『intel inside』のシールをペタッと貼るということに違和感を感じたのです。

   ところがアメリカでは、学生が図書館で『intel inside』の貼ったパソコンを使うようになっているというデータを見て、考えが変わったのです。事業部長が嫌だろうがなんだろうが、エンドユーザーがよかったらそれは正しいことなのだと。」

薮崎 「CMも特徴的でしたよね。」

西岡 「各パソコンメーカーのCMの最後3秒に『ピンポンパンポン』とつくあのCMですが、日本では最初はすべてのテレビ局からNGが出たのです。1つのCMにつき1クライアントしか出せないというのがテレビ局の見解でした。もし今回のCMを許可して先例を作ってしまうと、たとえば、『冷蔵庫のCMに、最後の3秒で冷えたビールが出る』など、CMの切り売りに繋がると危惧していたのでしょう。

   両者の間で困り抜いていた広告代理店の部長に『ビールはお店で買えるけど、インテルのCPUは買いに行っても売っていない。この3秒は、いいパソコンですよというインテルのお墨付きを与えているだけです』という知恵を授けて、無事にテレビ局からOKが出たのです。テレビ局はインテルのお蔭でパソコンメーカーがCMをバンバン出すのを欲しかったはずだから、何かOKを出す理由を探していたのかも知れませんね。

   インテルが費用を分担して各メーカーのCMを流すというのは、一見非効率なブランディング手法に思えるかもしれませんが、『この製品は良いですよ!』という宣伝文句を自分で言うより人に言ってもらったほうが信頼性が増しますからね。このブランディングは大成功を収めました。」

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インテルの強みは製造管理能力

薮崎 「インテルの強みはどこにあるのでしょうか。」

西岡 「インテルが強い最大の理由は、製造管理能力だと思います。製品自体についてはイミテーターたちがインテルのアーキテクチャを真似て同じ性能のモノを安く売っていました。アーキテクチャは真似ることが出来ても、インテルと同様の製造能力を持つためには莫大な投資が必要ですから真似ることが出来ません。例えばあるパソコンメーカーが新機種にインテル以外のCPUを採用することになったとしましょう。新製品開発には、製造遅れなどスケジュール通りには行かないことの方が多いです。本当は50万個必要なのに、10万個しか間に合わない事があるかもしれませんね。インテルは何百万、何千万と平気で作れます。これはパソコンメーカーからすると非常に安心ですよね。臨機応変に対応できて、きちっと予定通りに納品できるという生産能力というのは、物凄く強力な競争力だと思います。」

薮崎 「液晶のシャープ堺工場はうまく稼働していなかったように思いますが、生産という観点からどのように考えていますでしょうか。」

西岡 「私は1992年にシャープを離れていますから実際のところは何も知りません。ただ想像するに、シャープがあの物凄い生産能力を持つ堺工場の建設を決めたのは2007年、稼働が始まったのは2009年でした。そして2008年にリーマンショックが起こって世界の大不況が始まりました。これで液晶の需要が一気に減速したのですから不運な側面がありましたね。リーマンショックを予測できた人は居なかったのですから、シャープの経営者の不明を責める訳にはいきません。

   しかし、『あれだけの生産能力を持ったとしたら、誰に売るのか』という綿密な計画が必要だったはずです。亀山モデルでの大成功によって、自社で作った液晶パネルを自社でテレビにすれば2回儲かるという気持ちが販売網の拡充に悪影響を与えてしまったという側面もあったかもしれませんね。OEMでの販売先を十分に探さなかったのかも知れません。実際のところは分かりませんが。江戸時代の『ビジネスモデルのイノベーション』の先駆者である越後屋(後の三越→三井財閥)を大成功させた創業者 三井高利は家訓の中で『商売には見切り時が大切』と説いています。」

 

「元インテルジャパン社長が語る“上に立つ者”の矜持」
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